電源不要系同人サークル「Paper Entertainment Factory」のアナウンスと、適当な駄文。
本編フィルムブックと貞本エヴァ(マンガ版)と見比べてみて:
・フィルムブック1,2巻、貞本エヴァ1~3巻に相当。
・フィルムブックを見返してみると、怪我している綾波を見てから「逃げちゃダメだ」を経て「乗ります」に至るまでの流れ自体は本編もあまり変わらない。が、たしか劇場版ではミサトの「だめよ、逃げちゃ。お父さんから・・・何よりも自分から」というセリフが無くなっており、そのせいでシンジの「逃げちゃダメだ」が唐突に感じられる。ミサトが説得の姿勢を見せないことでネルフ側の物言いがより理不尽な印象になっている、というのもある。これじゃシンジも断るって。
それと、無人の初号機が手をかざして落下物からシンジを守るシーンがないため、シンジの「自分はこのロボットで戦えるのかもしれない・・・」という精神的追い風を得る機会がない。結果、この流れでなんでシンジは「逃げちゃダメだ」と自分を追い込んで戦う決意に至ったのか理由が希薄になっており感情移入しにくい。
対するに貞本エヴァのなんという描写の細かさよ。ゲンドウもめっちゃ理路整然と説得してるし。これだとシンジが断るのは父親への反発心、臆病さ、あとは突然シリアスな状況に直面させられたことからの逃避、といったところが理由になるだろう。そう、FKが間の取り方や心理描写にうるさいのは多分こういうことだ。シーンの流れや使っている映像素材自体に大きな差はなくても、視聴者が受け取る印象は大きく変わりうる。
・サキエル戦でのエヴァの暴走は、ストーリー最序盤でのクライマックスであり、つかみとして重要なシーンである。本編では時系列をいじって第二話の冒頭で初号機沈黙、回想の形で終盤に暴走を見せるというふうに「あのあと一体どうなったんだー?!」と視聴者を焦らせてテンションを引き上げている。他のシーンでもそうだが、劇場版では時系列の錯綜は行わない方針のようなので、この形で盛り上げることはできない。貞本エヴァでは意識を失ったシンジが精神世界でエヴァ内部にひそむ何かに接触するシーンが挿入され、暴走に至る。
が、劇場版では結局なにもなし。沈黙した、暴走した、勝ったァァァァーーーッ!終わり。なにその芸の無い脚本。
・劇場版では学校での描写は削れるだけ削ってある。シンジがパイロットかどうか聞かれてYESと答えるくだりもないのでミサトの口から「諜報部のセキュリティ大丈夫?」とかいうセリフが出たりする。些事だが。
・本編でシンジがゲンドウの手の火傷を見るのはシャムシエルの死骸の調査現場に見学に来たとき。が、劇場版では使徒は死骸という形で残らないようなのでこのシーンまるまるカット。
・あらためて見ると本編では学校のシーンやミサトとの生活描写でシンジの居場所実感が少しづつ形成されていくのがわかる。そもそもそういうものは積み重ねでしか得られないものだし。視聴者が受け取る印象としてもまた然り。
時間的制約で積み重ねの表現ができないがゆえのヤシマ作戦前の「人類の命運を賭けて戦うことを自覚し、戦う意志を固める」というモチベーション形成表現なのだろう。
だがなぁ。シンジが虚無的で、物事に執着が薄く、周囲に流されるままという本編同様のキャラづけでは、「人類の命運をあなたに託すわ」と言われたところで急にヒーロー的性格になるとも思えず。人はそんな抽象的なもののためには戦えない。身近な人間の幸せを守るために戦うのだ。居場所実感が希薄なままのシンジにはやっぱり戦う理由は希薄であると言わざるをえないな。
・ラミエル戦。1/1ダミーバルーンやら自走臼砲やらによる実験はオミット。職員の調査報告で済まされている。
そのかわり劇場版では狙撃前にラミエルの気をそらすために全周から飽和攻撃。やられても次から次へと。ここもナイス映像ナイスケレンみ。これによって「人類の命運を賭けている」という実感が増してもいる。
・劇場版では零号機から綾波を助け出すくだりでシンジの顔にゲンドウの顔がオーバーラップしない。フィルムブックの欄外注釈には「レイはシンジを通してゲンドウを見ているだけ。レイの微笑みはゲンドウにだけ向けられている」とあるが、それをうかがわせるオーバーラップの描写がないということは普通にシンジに微笑を向けているということか。これまでの戦う理由の希薄さとあわせて考えるに、シンジは綾波の存在を戦う理由にする、という解釈が妥当?この先の展開を見守りたい。
・そしてやはり貞本エヴァのなんという判りやすさよ。アニメで何のセリフも心理描写もなかったシーンにたいていモノローグが入ってる。これがひねくれものの庵野との違いか。
・フィルムブック1,2巻、貞本エヴァ1~3巻に相当。
・フィルムブックを見返してみると、怪我している綾波を見てから「逃げちゃダメだ」を経て「乗ります」に至るまでの流れ自体は本編もあまり変わらない。が、たしか劇場版ではミサトの「だめよ、逃げちゃ。お父さんから・・・何よりも自分から」というセリフが無くなっており、そのせいでシンジの「逃げちゃダメだ」が唐突に感じられる。ミサトが説得の姿勢を見せないことでネルフ側の物言いがより理不尽な印象になっている、というのもある。これじゃシンジも断るって。
それと、無人の初号機が手をかざして落下物からシンジを守るシーンがないため、シンジの「自分はこのロボットで戦えるのかもしれない・・・」という精神的追い風を得る機会がない。結果、この流れでなんでシンジは「逃げちゃダメだ」と自分を追い込んで戦う決意に至ったのか理由が希薄になっており感情移入しにくい。
対するに貞本エヴァのなんという描写の細かさよ。ゲンドウもめっちゃ理路整然と説得してるし。これだとシンジが断るのは父親への反発心、臆病さ、あとは突然シリアスな状況に直面させられたことからの逃避、といったところが理由になるだろう。そう、FKが間の取り方や心理描写にうるさいのは多分こういうことだ。シーンの流れや使っている映像素材自体に大きな差はなくても、視聴者が受け取る印象は大きく変わりうる。
・サキエル戦でのエヴァの暴走は、ストーリー最序盤でのクライマックスであり、つかみとして重要なシーンである。本編では時系列をいじって第二話の冒頭で初号機沈黙、回想の形で終盤に暴走を見せるというふうに「あのあと一体どうなったんだー?!」と視聴者を焦らせてテンションを引き上げている。他のシーンでもそうだが、劇場版では時系列の錯綜は行わない方針のようなので、この形で盛り上げることはできない。貞本エヴァでは意識を失ったシンジが精神世界でエヴァ内部にひそむ何かに接触するシーンが挿入され、暴走に至る。
が、劇場版では結局なにもなし。沈黙した、暴走した、勝ったァァァァーーーッ!終わり。なにその芸の無い脚本。
・劇場版では学校での描写は削れるだけ削ってある。シンジがパイロットかどうか聞かれてYESと答えるくだりもないのでミサトの口から「諜報部のセキュリティ大丈夫?」とかいうセリフが出たりする。些事だが。
・本編でシンジがゲンドウの手の火傷を見るのはシャムシエルの死骸の調査現場に見学に来たとき。が、劇場版では使徒は死骸という形で残らないようなのでこのシーンまるまるカット。
・あらためて見ると本編では学校のシーンやミサトとの生活描写でシンジの居場所実感が少しづつ形成されていくのがわかる。そもそもそういうものは積み重ねでしか得られないものだし。視聴者が受け取る印象としてもまた然り。
時間的制約で積み重ねの表現ができないがゆえのヤシマ作戦前の「人類の命運を賭けて戦うことを自覚し、戦う意志を固める」というモチベーション形成表現なのだろう。
だがなぁ。シンジが虚無的で、物事に執着が薄く、周囲に流されるままという本編同様のキャラづけでは、「人類の命運をあなたに託すわ」と言われたところで急にヒーロー的性格になるとも思えず。人はそんな抽象的なもののためには戦えない。身近な人間の幸せを守るために戦うのだ。居場所実感が希薄なままのシンジにはやっぱり戦う理由は希薄であると言わざるをえないな。
・ラミエル戦。1/1ダミーバルーンやら自走臼砲やらによる実験はオミット。職員の調査報告で済まされている。
そのかわり劇場版では狙撃前にラミエルの気をそらすために全周から飽和攻撃。やられても次から次へと。ここもナイス映像ナイスケレンみ。これによって「人類の命運を賭けている」という実感が増してもいる。
・劇場版では零号機から綾波を助け出すくだりでシンジの顔にゲンドウの顔がオーバーラップしない。フィルムブックの欄外注釈には「レイはシンジを通してゲンドウを見ているだけ。レイの微笑みはゲンドウにだけ向けられている」とあるが、それをうかがわせるオーバーラップの描写がないということは普通にシンジに微笑を向けているということか。これまでの戦う理由の希薄さとあわせて考えるに、シンジは綾波の存在を戦う理由にする、という解釈が妥当?この先の展開を見守りたい。
・そしてやはり貞本エヴァのなんという判りやすさよ。アニメで何のセリフも心理描写もなかったシーンにたいていモノローグが入ってる。これがひねくれものの庵野との違いか。
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