電源不要系同人サークル「Paper Entertainment Factory」のアナウンスと、適当な駄文。
最初に1つ。FKはCLANNADは全部プレイしたし、AirもKanonもOneもやった。AirとKanonの京アニ版TVアニメも観たし、Airの劇場版も観た。そういう前提で語っているものとご理解いただきたい。
あと、ネタバレが嫌な人はこの記事自体回避推奨で。
CLANNADもAir同様、1人のヒロインだけにコアテーマに通じる第二部的なストーリーが用意されており、そこからトゥルーエンディングに至るという点で他のマルチエンディングゲームと比べて話の絞込みはしやすいと言ってよかろう。問題は劇場版に特有の、時間の短さ。工夫無く脚本を書くと単に薄っぺらいダイジェスト版にしかならない。この時間的制約のもと、コアテーマを汲んだ脚本にするには結構大胆な改変も必要になるだろう。
なお、レイトショーとはいえ開始十分前で5人分のまとまった席が取れたこと(全席指定)、客の入りが6割程度だったこと、などから集客力は微妙だと思われる。京アニ版TVアニメのあとならもっと集客できたろうに。
はっ!さてはそのタイミングでもう一度、という戦略かこれは??・・・いやどうだろう。
冒頭部。朋也と渚の出会いのシーンにはかなり尺を割いている。原作と違って朋也が最初から濃い陰を帯びているため、渚の独り言に言葉を返す朋也の心境がやや説明不足か。その前にモノローグの一つでもあれば自然な流れになっただろうに。それ以外は印象的なシーンとしてまとまっていると思う。舞い散る桜の花びらと空を飛ぶ鳩などの飛びものと、光の演出へのこだわりには並々ならぬものを感じた。
早々に「8年後からの回想」という形での言及が入り、時系列の錯綜があるところはわりとテクニカル。原作を知っている人間にはそれで済まされるが、原作を知らない人にとってはどうだったのだろうか。
原作では春原は酷い目にあって笑いを取るリアクション型のキャラなのだが、劇場版では朋也が虚無的で消極的なので自ら暴走するキャラになっている。これはまあ許容される改変だろう。・・・その表現の濃ゆさと尺の長さには言いたいことが多々あるが。
ほかの登場人物は朋也の父、渚の両親、潮という必須キャラ以外には智代、杏、伊吹先生、吉野さん。ことみはほんのチョイ役でセリフもなし。なんというか、能動的に動けるキャラばかりが採用された感じ。伊吹先生は原作とは違いこの高校の教師を辞めておらず、演劇部の元顧問。その改変はいいとして、なぜか合気道使いになってる。これも能動的に動けるキャラにするための肉付けか?
演劇部の部員集め、なしくずしで入部、劇のシナリオを書く渚の家にお泊り・・・というイベントを経て創立者祭前日。
シナリオを上げられなかった渚に一同絶句。しかし頭の中では出来上がっているという。それを聞いて「彼女の頭の中にあるシナリオを信じましょう。それはきっと素晴らしいものに違いないわ」と皆を、渚を励ます伊吹先生。・・・そこで何で2人にオーラが出ますか??
Airなら国崎のナチュラルボーンな変さゆえに、どこでオーラを出そうが笑って済ませられたが今回はちょっとまずいだろ。ただただ異様だった。
で、いよいよ創立者祭当日。すげぇ大々的な祭りだ!というかフレンチカンカンは高校の祭りの出し物としてありえないだろ。そしてやっぱり太鼓が出てくるのか。和太鼓じゃないけど。
夕方どころか日が暮れてからようやく演劇部の出番。この劇中劇っていう形態はメタ的に演出意図を考えさせられるから面白い。彼女たちの流儀にも劇中劇があって興味深かったのを思い出す。単にFKの趣味なのかもしれないが。
そして、渚が演じる一人芝居から彼女も自分と同じ「何も無い世界」の悪夢を見ていたことを知り、終劇後に感極まって「お前が好きだ!」
うーん・・・ちょっと強引かな?あの明るさと前向きさで実は朋也とタメをはれる逆境度でした、というのがわかって感情の堰が決壊した、というのはよしとしよう。しかし、告白の前に一言二言あればもっと自然な流れになったろうに。
その後すぐに話は8年後に飛ぶ。虚脱している朋也。周りの人の会話から、渚はすでに他界していることがわかる。危険を承知の上で、朋也との子供を出産し、やはり母体が耐えられなかったということが。
産まれた子供(潮)の世話は渚の両親にまかせっきりで、渚と過ごした日々を思い返しているだけの朋也。
春原たちが訪ねてきても返事すらしない有様の彼のもとに、父親が訪ねてくる。いつものように頼りなく情けない父親だが、「このままではお前の子も不幸になってしまう。私と同じようにはならないでくれ!子供の大切な時期に自分の悲しみに溺れていた私のようには・・・」と哀訴する。
・・・そのあとで、なんで「私を許してくれ」なんだろう?「私を許してくれなくてもいい、ただ、この愚かな父親のようにだけはならないでくれ・・・」と言っていれば説得力と一貫性があるのに。
そして翌日。吉野さんと伊吹先生が家にやってきて朋也を強制的に旅行に連れ出す。春原をはじめ元同級生のメンツも合流して賑やかになるが、渚がいないままでの空疎な明るさに耐えられない朋也は一人で帰ろうとする。しかし吉野さんは「ある人に頼まれたんだ。」と絶対に朋也を帰させない構え。「ある人って誰なんだ!」と朋也は叫ぶ。吉野さんは答えなかったが、本当は朋也にもわかっていたのだろう。それは朋也の父親だった。
目的地の駅に到着し、そこで朋也は渚の両親と、5歳になった潮に再会する。
頼りない足取りで走ってくる潮。思わず駆け寄る朋也。転んだ潮を抱きとめ、見上げてくる我が子の笑顔に朋也の顔もほころぶ。そこで突然、「何も無い世界」のイメージが浮かぶ。約束の木の下で、微笑む渚。
そこでストーリーは終わる。
おいおいおいおいおいおい。
別に俺は原作厨でもなんでもないが、この脚本じゃ朋也が自分で悩んで悟って精神的に成長する様がまったく描かれてないじゃん。
「やっぱり血のつながった親子だから」という視聴者にとってはまったく実感のともなわない理由と幻想的要素で全てを片付けたつもりかよ?!
結婚してからの渚の両親との交流もまったく描かれてなかったし。「だんご大家族」に象徴される家族的つながりを描いたとおぼしきシーンが学校関係の友達・知り合いの集まりでしかないところが後の「血のつながった親子だから~」というニュアンスの部分とも齟齬を起こしておりどうにも遺憾。
尺が足りなかったとか言うなよ?削ろうと思えばいろいろ削れる場所はあったぞ。
どうやらほんとに薄っぺらいダイジェスト版(出崎風味)にとどまってしまったようだ。
FKの評価基準はテーマ性>演出で、たとえ演出が拙くても製作者が込めたテーマ性や意図に見るべき点があれば高めの評価を下すことが多いが、その逆の場合の評価は辛い。なぜなら、演出というのはほぼ「技術」であり、経験を積んだクリエイターにとっては蓄積された手法の適用にすぎない。出崎レベルならそれこそ自身の過去作の縮小再生産でもあの程度の演出は作れてしまうだろう。テーマ性を十全に表現するために演出を駆使して初めて価値があるのだ。
薄っぺらな内容で演出だけが優れた映画など、作りこまれたモデル・キャプチャーして作られたなめらかなモーション・ノリのいい音楽、しかしシステムとゲーム性とゲームバランスはクソ、というゲームのようなものだ。
正直がっかりさせられたが、ここはポジティブ思考で切り抜けよう。
・・・視聴前よりも京アニ版TVアニメへの期待感がアップした!!!これは間違いなくプラスだな。
あと、ネタバレが嫌な人はこの記事自体回避推奨で。
CLANNADもAir同様、1人のヒロインだけにコアテーマに通じる第二部的なストーリーが用意されており、そこからトゥルーエンディングに至るという点で他のマルチエンディングゲームと比べて話の絞込みはしやすいと言ってよかろう。問題は劇場版に特有の、時間の短さ。工夫無く脚本を書くと単に薄っぺらいダイジェスト版にしかならない。この時間的制約のもと、コアテーマを汲んだ脚本にするには結構大胆な改変も必要になるだろう。
なお、レイトショーとはいえ開始十分前で5人分のまとまった席が取れたこと(全席指定)、客の入りが6割程度だったこと、などから集客力は微妙だと思われる。京アニ版TVアニメのあとならもっと集客できたろうに。
はっ!さてはそのタイミングでもう一度、という戦略かこれは??・・・いやどうだろう。
冒頭部。朋也と渚の出会いのシーンにはかなり尺を割いている。原作と違って朋也が最初から濃い陰を帯びているため、渚の独り言に言葉を返す朋也の心境がやや説明不足か。その前にモノローグの一つでもあれば自然な流れになっただろうに。それ以外は印象的なシーンとしてまとまっていると思う。舞い散る桜の花びらと空を飛ぶ鳩などの飛びものと、光の演出へのこだわりには並々ならぬものを感じた。
早々に「8年後からの回想」という形での言及が入り、時系列の錯綜があるところはわりとテクニカル。原作を知っている人間にはそれで済まされるが、原作を知らない人にとってはどうだったのだろうか。
原作では春原は酷い目にあって笑いを取るリアクション型のキャラなのだが、劇場版では朋也が虚無的で消極的なので自ら暴走するキャラになっている。これはまあ許容される改変だろう。・・・その表現の濃ゆさと尺の長さには言いたいことが多々あるが。
ほかの登場人物は朋也の父、渚の両親、潮という必須キャラ以外には智代、杏、伊吹先生、吉野さん。ことみはほんのチョイ役でセリフもなし。なんというか、能動的に動けるキャラばかりが採用された感じ。伊吹先生は原作とは違いこの高校の教師を辞めておらず、演劇部の元顧問。その改変はいいとして、なぜか合気道使いになってる。これも能動的に動けるキャラにするための肉付けか?
演劇部の部員集め、なしくずしで入部、劇のシナリオを書く渚の家にお泊り・・・というイベントを経て創立者祭前日。
シナリオを上げられなかった渚に一同絶句。しかし頭の中では出来上がっているという。それを聞いて「彼女の頭の中にあるシナリオを信じましょう。それはきっと素晴らしいものに違いないわ」と皆を、渚を励ます伊吹先生。・・・そこで何で2人にオーラが出ますか??
Airなら国崎のナチュラルボーンな変さゆえに、どこでオーラを出そうが笑って済ませられたが今回はちょっとまずいだろ。ただただ異様だった。
で、いよいよ創立者祭当日。すげぇ大々的な祭りだ!というかフレンチカンカンは高校の祭りの出し物としてありえないだろ。そしてやっぱり太鼓が出てくるのか。和太鼓じゃないけど。
夕方どころか日が暮れてからようやく演劇部の出番。この劇中劇っていう形態はメタ的に演出意図を考えさせられるから面白い。彼女たちの流儀にも劇中劇があって興味深かったのを思い出す。単にFKの趣味なのかもしれないが。
そして、渚が演じる一人芝居から彼女も自分と同じ「何も無い世界」の悪夢を見ていたことを知り、終劇後に感極まって「お前が好きだ!」
うーん・・・ちょっと強引かな?あの明るさと前向きさで実は朋也とタメをはれる逆境度でした、というのがわかって感情の堰が決壊した、というのはよしとしよう。しかし、告白の前に一言二言あればもっと自然な流れになったろうに。
その後すぐに話は8年後に飛ぶ。虚脱している朋也。周りの人の会話から、渚はすでに他界していることがわかる。危険を承知の上で、朋也との子供を出産し、やはり母体が耐えられなかったということが。
産まれた子供(潮)の世話は渚の両親にまかせっきりで、渚と過ごした日々を思い返しているだけの朋也。
春原たちが訪ねてきても返事すらしない有様の彼のもとに、父親が訪ねてくる。いつものように頼りなく情けない父親だが、「このままではお前の子も不幸になってしまう。私と同じようにはならないでくれ!子供の大切な時期に自分の悲しみに溺れていた私のようには・・・」と哀訴する。
・・・そのあとで、なんで「私を許してくれ」なんだろう?「私を許してくれなくてもいい、ただ、この愚かな父親のようにだけはならないでくれ・・・」と言っていれば説得力と一貫性があるのに。
そして翌日。吉野さんと伊吹先生が家にやってきて朋也を強制的に旅行に連れ出す。春原をはじめ元同級生のメンツも合流して賑やかになるが、渚がいないままでの空疎な明るさに耐えられない朋也は一人で帰ろうとする。しかし吉野さんは「ある人に頼まれたんだ。」と絶対に朋也を帰させない構え。「ある人って誰なんだ!」と朋也は叫ぶ。吉野さんは答えなかったが、本当は朋也にもわかっていたのだろう。それは朋也の父親だった。
目的地の駅に到着し、そこで朋也は渚の両親と、5歳になった潮に再会する。
頼りない足取りで走ってくる潮。思わず駆け寄る朋也。転んだ潮を抱きとめ、見上げてくる我が子の笑顔に朋也の顔もほころぶ。そこで突然、「何も無い世界」のイメージが浮かぶ。約束の木の下で、微笑む渚。
そこでストーリーは終わる。
おいおいおいおいおいおい。
別に俺は原作厨でもなんでもないが、この脚本じゃ朋也が自分で悩んで悟って精神的に成長する様がまったく描かれてないじゃん。
「やっぱり血のつながった親子だから」という視聴者にとってはまったく実感のともなわない理由と幻想的要素で全てを片付けたつもりかよ?!
結婚してからの渚の両親との交流もまったく描かれてなかったし。「だんご大家族」に象徴される家族的つながりを描いたとおぼしきシーンが学校関係の友達・知り合いの集まりでしかないところが後の「血のつながった親子だから~」というニュアンスの部分とも齟齬を起こしておりどうにも遺憾。
尺が足りなかったとか言うなよ?削ろうと思えばいろいろ削れる場所はあったぞ。
どうやらほんとに薄っぺらいダイジェスト版(出崎風味)にとどまってしまったようだ。
FKの評価基準はテーマ性>演出で、たとえ演出が拙くても製作者が込めたテーマ性や意図に見るべき点があれば高めの評価を下すことが多いが、その逆の場合の評価は辛い。なぜなら、演出というのはほぼ「技術」であり、経験を積んだクリエイターにとっては蓄積された手法の適用にすぎない。出崎レベルならそれこそ自身の過去作の縮小再生産でもあの程度の演出は作れてしまうだろう。テーマ性を十全に表現するために演出を駆使して初めて価値があるのだ。
薄っぺらな内容で演出だけが優れた映画など、作りこまれたモデル・キャプチャーして作られたなめらかなモーション・ノリのいい音楽、しかしシステムとゲーム性とゲームバランスはクソ、というゲームのようなものだ。
正直がっかりさせられたが、ここはポジティブ思考で切り抜けよう。
・・・視聴前よりも京アニ版TVアニメへの期待感がアップした!!!これは間違いなくプラスだな。
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