電源不要系同人サークル「Paper Entertainment Factory」のアナウンスと、適当な駄文。
小説「WORLD WAR Z」の評点が辛くなった原因の一つであろう小説です。
本作は、破局を迎えつつある地球から太陽系外への宇宙植民が開始されるという実にありふれた導入で始まる。何年かかるかわからない植民可能な惑星の発見と環境改造を、有人ではなくロボットが行い、同時にコンピュータの記録から再現した遺伝情報をもとに新生児を生み出して育て、人間が住めるようになったその星で新たな社会を築く民とする、というのもとりたてて斬新な発想には見えない。
しかし、植民可能な惑星ケイロン発見の報を受け、後続の植民船に乗り込んでかの星に到着した植民団が見たものは、地球では考えられない形態で成立・発展した社会だった。
主に植民団側の登場人物を追う形で展開されるストーリーは、ケイロン社会の奇妙さに対する当惑を無理なく読者に伝え、やがて実はケイロンにあってはそれが奇妙でもなんでもなく実に合理的で、理想的ですらあることが明らかになっていく。
ケイロン社会は成立時点から高度な科学力により事実上無尽蔵なエネルギーと資源を利用可能であり、またロボットの存在によって単純な労働力も必要としない。つまりここでは富が意味を持たず、富を求めて力を振るう必要がなく、富と力を統べんとする権力も存在しない。
そのような前提に基づく社会が、作中で生き生きと描写されているのだ。
これだけでも、本作を読む価値は十分にあると言ってよいだろう。
FKが読んだのはハヤカワSF文庫の新装版で、巻末で山本弘が解説を加えているのだが、これがまた秀逸である。脳味噌をちゃんと使おうとしない人間の愚かさを憎み、その蒙を開かせようという思いに満ちた作品をずっと書いている山本弘にとって、現実社会でその愚かさを蔓延させる原因になっている全てのものから隔絶されて成立した社会を活写した本作は、自分とは異なるアプローチで敵勢力に見事な一撃を加えてみせた頼もしい同志のように映ったのではないだろうか?
しかしその一方で、本作は自分にある種絶望感に近い諦念を感じさせもした。
それは、過去とのしがらみを引きずりながら進んでいる以上、地球上で人間社会がこのような理想社会に到達するのはいつのことになるか、見当もつかないぐらい未来のことだろう、ということだ。
まず前提として、事実上無尽蔵のエネルギーと資源が利用可能になり、そして単純労働力が不要な状態にならねばならない。これは、科学技術が人間社会の利便性向上のためにあるとすれば、科学が達成すべき最終目標の一つだろう。
そこに至るまでの中間点というか、過渡的な技術は現時点でもいろいろと視野に入ってはいる。宇宙太陽光発電、ロボット、ナノマシン等々。それらが実用化されていく過程で、それによって既得権を侵される者たちが抵抗勢力となって足を引っ張るだろう。テロや戦争も起こるかもしれない。三歩進んで二歩戻る、という感じで結局遅々とした歩みでしか進めまい。
それこそ、なんらかの大破局からの復興、というような状況でも挟まらないことには。これこそがまさに、「再生のための破壊」が必要とされる所以か…。
そして、下の世代に偏見を植え込む恣意的な教育も絶えることは無く、人間の愚かさは連綿と受け継がれていくだろう。
とうにわかっていたことではあるが、あらためて認識するとやはり心が冷えるものがある。
本作は、破局を迎えつつある地球から太陽系外への宇宙植民が開始されるという実にありふれた導入で始まる。何年かかるかわからない植民可能な惑星の発見と環境改造を、有人ではなくロボットが行い、同時にコンピュータの記録から再現した遺伝情報をもとに新生児を生み出して育て、人間が住めるようになったその星で新たな社会を築く民とする、というのもとりたてて斬新な発想には見えない。
しかし、植民可能な惑星ケイロン発見の報を受け、後続の植民船に乗り込んでかの星に到着した植民団が見たものは、地球では考えられない形態で成立・発展した社会だった。
主に植民団側の登場人物を追う形で展開されるストーリーは、ケイロン社会の奇妙さに対する当惑を無理なく読者に伝え、やがて実はケイロンにあってはそれが奇妙でもなんでもなく実に合理的で、理想的ですらあることが明らかになっていく。
ケイロン社会は成立時点から高度な科学力により事実上無尽蔵なエネルギーと資源を利用可能であり、またロボットの存在によって単純な労働力も必要としない。つまりここでは富が意味を持たず、富を求めて力を振るう必要がなく、富と力を統べんとする権力も存在しない。
そのような前提に基づく社会が、作中で生き生きと描写されているのだ。
これだけでも、本作を読む価値は十分にあると言ってよいだろう。
FKが読んだのはハヤカワSF文庫の新装版で、巻末で山本弘が解説を加えているのだが、これがまた秀逸である。脳味噌をちゃんと使おうとしない人間の愚かさを憎み、その蒙を開かせようという思いに満ちた作品をずっと書いている山本弘にとって、現実社会でその愚かさを蔓延させる原因になっている全てのものから隔絶されて成立した社会を活写した本作は、自分とは異なるアプローチで敵勢力に見事な一撃を加えてみせた頼もしい同志のように映ったのではないだろうか?
しかしその一方で、本作は自分にある種絶望感に近い諦念を感じさせもした。
それは、過去とのしがらみを引きずりながら進んでいる以上、地球上で人間社会がこのような理想社会に到達するのはいつのことになるか、見当もつかないぐらい未来のことだろう、ということだ。
まず前提として、事実上無尽蔵のエネルギーと資源が利用可能になり、そして単純労働力が不要な状態にならねばならない。これは、科学技術が人間社会の利便性向上のためにあるとすれば、科学が達成すべき最終目標の一つだろう。
そこに至るまでの中間点というか、過渡的な技術は現時点でもいろいろと視野に入ってはいる。宇宙太陽光発電、ロボット、ナノマシン等々。それらが実用化されていく過程で、それによって既得権を侵される者たちが抵抗勢力となって足を引っ張るだろう。テロや戦争も起こるかもしれない。三歩進んで二歩戻る、という感じで結局遅々とした歩みでしか進めまい。
それこそ、なんらかの大破局からの復興、というような状況でも挟まらないことには。これこそがまさに、「再生のための破壊」が必要とされる所以か…。
そして、下の世代に偏見を植え込む恣意的な教育も絶えることは無く、人間の愚かさは連綿と受け継がれていくだろう。
とうにわかっていたことではあるが、あらためて認識するとやはり心が冷えるものがある。
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