電源不要系同人サークル「Paper Entertainment Factory」のアナウンスと、適当な駄文。
Web上でこんな記事を見つけた。
ソーシャルゲーム批判 - 文人商売
鋭い分析も含んではいるが、これはちょっと…。
自分はこの記事の作者にケンカを売りたいわけでもソーシャルゲームを擁護したいわけでもないが、あまりにも重大な視点が欠落しているので筆を取った。
ソーシャルゲームの「ソーシャル」とは?
この記事ではソーシャルゲームを「ゲームとプレイヤー」の二者間の関係性だけで捉えており、「ゲームと、複数のプレイヤー」という関係性についての考察が一切ない。ソーシャルゲームに「ソーシャル」と冠される所以、ゲーム内での体験を通じてプレイヤー間で連帯感や優越感を感じてもらう、そしてゲーム内での人間関係を捨て去りがたいものと感じさせることでゲームを続けてもらう、という構造を把握しなければ、スタンドアローン的に遊べるゲームシステム部分だけを論評しても意味がない。
対戦プレイ・協力プレイでの面白さを追求したゲームを1人だけで遊んだときの感想を書いているようなものだ。ソーシャル性をAIに代行させることは困難なので、AIは無し。対戦格闘ゲームのトレーニングモード単体でのプレイ感…とでも言えばいいだろうか。
別の例を挙げよう。この記事中にもあるTRPGだが、あれは事情を知らない人間が傍から見るとプレイヤー達が冒険者側、ゲームマスターがモンスター側となって勝敗を争うゲームのように見えるが、あれをプレイヤーVSゲームマスターの勝負として考えるとゲームとして破綻している。ゲームマスターには無制限の裁量が与えられているからだ。TRPGは、ゲームマスターとプレイヤー全員を含めてプレイ体験を楽しむコミュニケーションゲームとして捉えなければ意味をなさない。
構成要素の一部だけ取り出してみたときの印象では全体としての評価はできない、という例である。
この記事だけでなく、Webに溢れるソーシャルゲームに対する論考にはビジネルモデルとスタンドアローン的なゲームシステムにだけ注目した内容のものが多い。
ソーシャル性をあまり活用していないゲームもあるだろうが、大部分の書き手は自分できちんとソーシャルゲームをやり込んでみていないのだろう。実のところ、自分もある程度まともにソーシャルゲームをやり込んでみるまでは、暴利を貪っているようにしか見えないビジネスモデルと、スタンドアローン的なゲームシステムが単純安易このうえないことへの反感が強くあった。ゆとりゲーここに極まれりとか、こんなゲームがもてはやされるようではデジタルゲームの文化は死ぬとか思っていた。
大部分のソーシャルゲームでは導入部から中盤にかけてぐらいは他のプレイヤーとの関わりが薄い、ないしはほとんど無い。そして中盤を過ぎてからソーシャル性の比重が増していく。このバランスは気軽にゲームを始めてもらうための配慮だろうが、そこに至るまでソーシャル性のなんたるかを理解してもらえないという弱点でもある。
だが、ソーシャル性が機能する局面まで来ると、ゲームシステムのシンプルさはむしろ煩雑さを減らして「仲間のために協力する」という行為のハードルを下げるよう機能していること等々が漠然と見えてくるのだ。
ソーシャル性を一切考慮しなければ、単なるゲーム内の追加データのために数千円支払うなど馬鹿げたことだ、ガチャでお手軽に手に入る「強さ」に惑わされ耽溺しているだけだ、という論が出てくるのは至極もっとも。
しかし、これが交際費…人付き合いのための出費だとしたらどうだろうか。呑み会につきあって数千円払う。一緒にカラオケやダーツバーに行って数千円払う。それほどおかしくは思えない。
ゲーム内での強さを追い求めるにしても、自分の効率的なプレイのためだけでなく、仲間と協力するときにどれだけ自分が貢献できるか、ということを念頭に置いているか否かで、意味合いはかなり変わってくる。
このようなソーシャル性についての視点を欠いたままソーシャルゲームについて語っても、一面的で意味の薄いものにならざるをえない。そう自分は思う。
ソーシャルゲーム批判 - 文人商売
鋭い分析も含んではいるが、これはちょっと…。
自分はこの記事の作者にケンカを売りたいわけでもソーシャルゲームを擁護したいわけでもないが、あまりにも重大な視点が欠落しているので筆を取った。
ソーシャルゲームの「ソーシャル」とは?
この記事ではソーシャルゲームを「ゲームとプレイヤー」の二者間の関係性だけで捉えており、「ゲームと、複数のプレイヤー」という関係性についての考察が一切ない。ソーシャルゲームに「ソーシャル」と冠される所以、ゲーム内での体験を通じてプレイヤー間で連帯感や優越感を感じてもらう、そしてゲーム内での人間関係を捨て去りがたいものと感じさせることでゲームを続けてもらう、という構造を把握しなければ、スタンドアローン的に遊べるゲームシステム部分だけを論評しても意味がない。
対戦プレイ・協力プレイでの面白さを追求したゲームを1人だけで遊んだときの感想を書いているようなものだ。ソーシャル性をAIに代行させることは困難なので、AIは無し。対戦格闘ゲームのトレーニングモード単体でのプレイ感…とでも言えばいいだろうか。
別の例を挙げよう。この記事中にもあるTRPGだが、あれは事情を知らない人間が傍から見るとプレイヤー達が冒険者側、ゲームマスターがモンスター側となって勝敗を争うゲームのように見えるが、あれをプレイヤーVSゲームマスターの勝負として考えるとゲームとして破綻している。ゲームマスターには無制限の裁量が与えられているからだ。TRPGは、ゲームマスターとプレイヤー全員を含めてプレイ体験を楽しむコミュニケーションゲームとして捉えなければ意味をなさない。
構成要素の一部だけ取り出してみたときの印象では全体としての評価はできない、という例である。
この記事だけでなく、Webに溢れるソーシャルゲームに対する論考にはビジネルモデルとスタンドアローン的なゲームシステムにだけ注目した内容のものが多い。
ソーシャル性をあまり活用していないゲームもあるだろうが、大部分の書き手は自分できちんとソーシャルゲームをやり込んでみていないのだろう。実のところ、自分もある程度まともにソーシャルゲームをやり込んでみるまでは、暴利を貪っているようにしか見えないビジネスモデルと、スタンドアローン的なゲームシステムが単純安易このうえないことへの反感が強くあった。ゆとりゲーここに極まれりとか、こんなゲームがもてはやされるようではデジタルゲームの文化は死ぬとか思っていた。
大部分のソーシャルゲームでは導入部から中盤にかけてぐらいは他のプレイヤーとの関わりが薄い、ないしはほとんど無い。そして中盤を過ぎてからソーシャル性の比重が増していく。このバランスは気軽にゲームを始めてもらうための配慮だろうが、そこに至るまでソーシャル性のなんたるかを理解してもらえないという弱点でもある。
だが、ソーシャル性が機能する局面まで来ると、ゲームシステムのシンプルさはむしろ煩雑さを減らして「仲間のために協力する」という行為のハードルを下げるよう機能していること等々が漠然と見えてくるのだ。
ソーシャル性を一切考慮しなければ、単なるゲーム内の追加データのために数千円支払うなど馬鹿げたことだ、ガチャでお手軽に手に入る「強さ」に惑わされ耽溺しているだけだ、という論が出てくるのは至極もっとも。
しかし、これが交際費…人付き合いのための出費だとしたらどうだろうか。呑み会につきあって数千円払う。一緒にカラオケやダーツバーに行って数千円払う。それほどおかしくは思えない。
ゲーム内での強さを追い求めるにしても、自分の効率的なプレイのためだけでなく、仲間と協力するときにどれだけ自分が貢献できるか、ということを念頭に置いているか否かで、意味合いはかなり変わってくる。
このようなソーシャル性についての視点を欠いたままソーシャルゲームについて語っても、一面的で意味の薄いものにならざるをえない。そう自分は思う。
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