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電源不要系同人サークル「Paper Entertainment Factory」のアナウンスと、適当な駄文。
こいつは実に面白い近未来SFフィクションだ!・・・すごい皮肉っぽく聞こえるな。いや、文字通りの意味。

近未来SFは近い将来に実現されそうなガジェットを駆使して「可能なこと」と「不可能なこと」の境界をぼやかし、そこから飛躍させて話をふくらませる。そういう点で、「実際にあったことではないけど、あってもおかしくない話、あるいは近い将来起こるかもしれない話」であるフィクションとの相性は良好である。

この作品のテーマの少なくとも三分の一は『シリアナ』のそれと同じものであろう。
某大国が今享受している繁栄を維持するために、資源や物資の輸出元となる国の体制さえも自分達の都合がいいように操ろうとし、そのためにはあらゆる謀略はもとより暗殺や戦争も辞さないという恐るべきエゴイズム。
都合が悪い体制というのは要するに某大国にとって厳しい取引条件を提示してくる体制である。某大国にとって厳しい取引条件は逆側となる輸出元の国にとっては良い条件であり、そこから得られる利益は国を富ましめ国民生活を向上させるために必要な予算の元となる。某大国はそれを謀略や暗殺や戦争で叩き潰す。
ここまでは『シリアナ』と同じだが、この作品はそこからもう一歩踏み込んでいる。
自分達が幸福を追求する道を某大国が妨害していることを知ったその国の運動家達は、合法的な手段で状況を打破しようとしては失敗し、あるいは失敗した前例を知り、絶望してテロに走る。
このテロを起こさせないようにするために、その国の内部で争いを起こさせるという発想。民族の違い、宗教の違い、争いの火種はどの国にもあり、悲惨な現実への不満はそれをたやすく燃え上がらせる。「衣食足りて礼節を知る」、その逆の境遇にある人間はたやすく暴徒と化す。そして、国内で紛争が続いており、手近なところに「敵」がいる限り、そうそう外の「敵」に目を向けたりはしないものだ。
・・・前述したようにこれはフィクションだが、実にありそうな話なので本当に恐ろしい。
本作品ではこの争いを起こさせる部分に「SF的飛躍」があり、その目立った飛躍感が「ありそうな話」っぽさを希釈しているが、巧妙な謀略によっても実現可能なように思える。
そして、某大国側に倫理的な躊躇がいまさらあるとも思えない。
そうなると、やるかやらないかはリスクコントロールの費用対効果の問題でしかないだろう。テロで狙われそうな施設や要人の警護を厳重にするか、テロを起こしそうな人間のいる国に内戦を起こさせるか。・・・どちらかしかやってはいけないという理由もまた無い。
貧困に喘ぐ人民から搾取して得る富裕。起こさせた戦争の陰で享受する平和。
繁栄を謳歌する先進諸国は、さながら血の海に浮いた豪華客船といったところか。

残りの三分の一は倫理の問題である。
主人公の母親の問題は正直どうでもいい。脳死・植物状態・尊厳死etc.のありふれた議論だ。
戦場で少年兵(あるいは少女兵)を殺すことも自分にとってはどうでもいい。人を殺す意思と能力を持って対峙したなら、どちらが死んでも然るべき結末だ。
問題は、「血の海に浮いた豪華客船の繁栄」を享受すること、そしてその事実への無関心についてである。
我々「幸いにして」先進国に住む人間は繁栄を享受する側である。その繁栄の陰には虐げられた民の悲嘆と怨嗟が満ちている。大多数の人間はそれに気付きもせず、気付いていても耳を傾けようとせず、耳を傾けても具体的な行動を起こそうとはしない。世界の矛盾から目をそむけ、享楽的な生活を送っている。・・・

結論から言うと、「世界は矛盾に満ちていて当然」。
人間は平等などではないし、理性的な存在でもないし、その本質が善というわけでもない。
人間が”幸福を追求する”のは当たり前でも”幸福になれる”のが当たり前なわけではない。
外的環境は本来敵対的なものだ。持てる全てを利用してそこから幸福を確保する、というスタンスこそが現実的な生のあり方だろう。
ただし、人と人が社会をなして生きている以上、許されないことがある。
それは、「他者の権利を侵す」こと。他者の権利を侵す者は自らの権利を主張する論理的正当性を失う。
社会契約に対する違反でもあり、これはまぎれもない「悪」だ。
したがって、謀略・暗殺・戦争を行った者は処断されねばならない。これが現在の矛盾に対する回答その1。
もう1つ。幸福を追求するのは人間なら当然だとさきほど述べたが、幸福の内容は選んだほうがいい。特に石油依存の大量消費は限界が見えている。
資本主義の成熟は大量消費社会を到来させ、消費を促すためにメディアを通じて大衆の欲望を煽り立てる。
幸福というのはきわめて主観的なものなので、贅沢をしても幸福を感じるとは限らないし質素な生活でも十分幸福になりうる。そしてそれは、個人の幸福観・・・すなわち、心の持ち方ひとつで変えられることなのである。
過剰な消費を求める幸福観──あるいは幸福の実感が得られない空疎さを埋めるための既製品の幸福観か──を変えれば、他から貪るほどの奢侈は必要なくなる。
他人に「布教」したりする必要はない。そのような責を負わされるいわれはない。個人個人が物事を正しく認識し、然るべく振舞うようにしていけば、その集合である社会も変わっていくだろう。これが現状の矛盾に対する回答その2。
どうせ矛盾に満ちた世界だ。そう簡単に変えられるわけもない。

・・・興がのっていろいろ書いてしまったが、むろんこんな回答は本作品にはない。現実的すぎて面白みの欠片もないからな。前述した「SF的飛躍」を生かした、主人公なりの決着をつけている。この決着はフィクション的ではなくSF的であり、やはり「ありそうな話っぽさ」が希釈されている。深刻さを弱めてエンターテイメントのレベルにとどめているのかもしれない。
こういう、いろいろなことを考えさせられる──あるいは考えることができる──作品は、実に、面白い。
文章のレベルも高く、同作者の他作品も気になってくる出来だった。
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最初に1つ。FKはCLANNADは全部プレイしたし、AirもKanonもOneもやった。AirとKanonの京アニ版TVアニメも観たし、Airの劇場版も観た。そういう前提で語っているものとご理解いただきたい。
あと、ネタバレが嫌な人はこの記事自体回避推奨で。

CLANNADもAir同様、1人のヒロインだけにコアテーマに通じる第二部的なストーリーが用意されており、そこからトゥルーエンディングに至るという点で他のマルチエンディングゲームと比べて話の絞込みはしやすいと言ってよかろう。問題は劇場版に特有の、時間の短さ。工夫無く脚本を書くと単に薄っぺらいダイジェスト版にしかならない。この時間的制約のもと、コアテーマを汲んだ脚本にするには結構大胆な改変も必要になるだろう。
なお、レイトショーとはいえ開始十分前で5人分のまとまった席が取れたこと(全席指定)、客の入りが6割程度だったこと、などから集客力は微妙だと思われる。京アニ版TVアニメのあとならもっと集客できたろうに。
はっ!さてはそのタイミングでもう一度、という戦略かこれは??・・・いやどうだろう。

冒頭部。朋也と渚の出会いのシーンにはかなり尺を割いている。原作と違って朋也が最初から濃い陰を帯びているため、渚の独り言に言葉を返す朋也の心境がやや説明不足か。その前にモノローグの一つでもあれば自然な流れになっただろうに。それ以外は印象的なシーンとしてまとまっていると思う。舞い散る桜の花びらと空を飛ぶ鳩などの飛びものと、光の演出へのこだわりには並々ならぬものを感じた。
早々に「8年後からの回想」という形での言及が入り、時系列の錯綜があるところはわりとテクニカル。原作を知っている人間にはそれで済まされるが、原作を知らない人にとってはどうだったのだろうか。
原作では春原は酷い目にあって笑いを取るリアクション型のキャラなのだが、劇場版では朋也が虚無的で消極的なので自ら暴走するキャラになっている。これはまあ許容される改変だろう。・・・その表現の濃ゆさと尺の長さには言いたいことが多々あるが。
ほかの登場人物は朋也の父、渚の両親、潮という必須キャラ以外には智代、杏、伊吹先生、吉野さん。ことみはほんのチョイ役でセリフもなし。なんというか、能動的に動けるキャラばかりが採用された感じ。伊吹先生は原作とは違いこの高校の教師を辞めておらず、演劇部の元顧問。その改変はいいとして、なぜか合気道使いになってる。これも能動的に動けるキャラにするための肉付けか?
演劇部の部員集め、なしくずしで入部、劇のシナリオを書く渚の家にお泊り・・・というイベントを経て創立者祭前日。
シナリオを上げられなかった渚に一同絶句。しかし頭の中では出来上がっているという。それを聞いて「彼女の頭の中にあるシナリオを信じましょう。それはきっと素晴らしいものに違いないわ」と皆を、渚を励ます伊吹先生。・・・そこで何で2人にオーラが出ますか??
Airなら国崎のナチュラルボーンな変さゆえに、どこでオーラを出そうが笑って済ませられたが今回はちょっとまずいだろ。ただただ異様だった。
で、いよいよ創立者祭当日。すげぇ大々的な祭りだ!というかフレンチカンカンは高校の祭りの出し物としてありえないだろ。そしてやっぱり太鼓が出てくるのか。和太鼓じゃないけど。
夕方どころか日が暮れてからようやく演劇部の出番。この劇中劇っていう形態はメタ的に演出意図を考えさせられるから面白い。彼女たちの流儀にも劇中劇があって興味深かったのを思い出す。単にFKの趣味なのかもしれないが。
そして、渚が演じる一人芝居から彼女も自分と同じ「何も無い世界」の悪夢を見ていたことを知り、終劇後に感極まって「お前が好きだ!」
うーん・・・ちょっと強引かな?あの明るさと前向きさで実は朋也とタメをはれる逆境度でした、というのがわかって感情の堰が決壊した、というのはよしとしよう。しかし、告白の前に一言二言あればもっと自然な流れになったろうに。
その後すぐに話は8年後に飛ぶ。虚脱している朋也。周りの人の会話から、渚はすでに他界していることがわかる。危険を承知の上で、朋也との子供を出産し、やはり母体が耐えられなかったということが。
産まれた子供(潮)の世話は渚の両親にまかせっきりで、渚と過ごした日々を思い返しているだけの朋也。
春原たちが訪ねてきても返事すらしない有様の彼のもとに、父親が訪ねてくる。いつものように頼りなく情けない父親だが、「このままではお前の子も不幸になってしまう。私と同じようにはならないでくれ!子供の大切な時期に自分の悲しみに溺れていた私のようには・・・」と哀訴する。
・・・そのあとで、なんで「私を許してくれ」なんだろう?「私を許してくれなくてもいい、ただ、この愚かな父親のようにだけはならないでくれ・・・」と言っていれば説得力と一貫性があるのに。
そして翌日。吉野さんと伊吹先生が家にやってきて朋也を強制的に旅行に連れ出す。春原をはじめ元同級生のメンツも合流して賑やかになるが、渚がいないままでの空疎な明るさに耐えられない朋也は一人で帰ろうとする。しかし吉野さんは「ある人に頼まれたんだ。」と絶対に朋也を帰させない構え。「ある人って誰なんだ!」と朋也は叫ぶ。吉野さんは答えなかったが、本当は朋也にもわかっていたのだろう。それは朋也の父親だった。
目的地の駅に到着し、そこで朋也は渚の両親と、5歳になった潮に再会する。
頼りない足取りで走ってくる潮。思わず駆け寄る朋也。転んだ潮を抱きとめ、見上げてくる我が子の笑顔に朋也の顔もほころぶ。そこで突然、「何も無い世界」のイメージが浮かぶ。約束の木の下で、微笑む渚。
そこでストーリーは終わる。

おいおいおいおいおいおい。
別に俺は原作厨でもなんでもないが、この脚本じゃ朋也が自分で悩んで悟って精神的に成長する様がまったく描かれてないじゃん。
「やっぱり血のつながった親子だから」という視聴者にとってはまったく実感のともなわない理由と幻想的要素で全てを片付けたつもりかよ?!
結婚してからの渚の両親との交流もまったく描かれてなかったし。「だんご大家族」に象徴される家族的つながりを描いたとおぼしきシーンが学校関係の友達・知り合いの集まりでしかないところが後の「血のつながった親子だから~」というニュアンスの部分とも齟齬を起こしておりどうにも遺憾。
尺が足りなかったとか言うなよ?削ろうと思えばいろいろ削れる場所はあったぞ。

どうやらほんとに薄っぺらいダイジェスト版(出崎風味)にとどまってしまったようだ。
FKの評価基準はテーマ性>演出で、たとえ演出が拙くても製作者が込めたテーマ性や意図に見るべき点があれば高めの評価を下すことが多いが、その逆の場合の評価は辛い。なぜなら、演出というのはほぼ「技術」であり、経験を積んだクリエイターにとっては蓄積された手法の適用にすぎない。出崎レベルならそれこそ自身の過去作の縮小再生産でもあの程度の演出は作れてしまうだろう。テーマ性を十全に表現するために演出を駆使して初めて価値があるのだ。
薄っぺらな内容で演出だけが優れた映画など、作りこまれたモデル・キャプチャーして作られたなめらかなモーション・ノリのいい音楽、しかしシステムとゲーム性とゲームバランスはクソ、というゲームのようなものだ。

正直がっかりさせられたが、ここはポジティブ思考で切り抜けよう。
・・・視聴前よりも京アニ版TVアニメへの期待感がアップした!!!これは間違いなくプラスだな。

発売から2年もたっているが機会を得てようやく見終わった。
映像はなかなか。さすがOVA。キャラはこつえー絵ではないが雰囲気を壊さずにうまくまとめている。
しかし、読後感というか視聴後感というか、どうにもあっさりとしていて薄すぎるのだ。ローストチキンと蒸し鶏ぐらいは違う。
起承転結の「起」「承」のところはともかく、「転」「結」が。
あの内容に対して6話と言うのはいかにも短かったか?
しかし、1~3巻の内容を4話で表現しえたのに、4巻一冊の内容を2話で表現しえないということがあるのだろうか?

結論からいえば、ある。
あらためて読み返してみると、秋山瑞人の文章には一見どうでも良いがさりげない伏線性を帯びた挿話と、内面描写が多い。
それらを全てオミットして、メインの登場人物について実際に現象として起こったことだけをひたすら描写していってもアニメとしては成立する。
しかし、4巻からはどうでもいい挿話は消え、内面描写が重要性を増す。それでも、クライマックスに至る旅と南洋での出来事があって情景描写のボリュームも減りはしない。
だから、それまでのやり方では盛り上がる結末を描けなかった。ストーリー的には内面描写の重要性が増しているのに、それは省かれているのだから。

・・・と、いうよりも、結局この脚本ではひたすら現象面だけを追っていったにすぎない。
浅羽の葛藤も苦悩も精神的成長も何も無い。凡庸極まりない、作業的な脚本だ。

原作未読の人がいたら是非読んでみることをお薦めする。OVAは見なくていいから。

By 田中ロミオ。
読了。
いやーすごい内容の無さだ!これこそライトノベル?
らしくもなく本編9割がたメルヒェーンな雰囲気で染まってるので残りの1割に小難しい単語群がストレス発散的に詰め込まれているようなそうでもないような。
人類は精神的活力を失って衰退したことになっていて、現在の地球の多数派知的生物は好奇心旺盛&楽しいこと大好きってとこからメッセージ性を読み取ろうかと思ったが、この作品のテンションではその作業のモチベーションが上がらず閾値を超えないまま。
まー人間、いかなるものからでも教訓を読み取ることは可能だしなー。(なげやり)

読みやすさは保証付きなので活字咀嚼力が低まってる時期にはいいかも。
そしてときどきクスリとかニヤリとか笑えれば儲けもの、というスタンスで接するがよろしいかと。

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プロフィール
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ゲーム会社勤務
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