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電源不要系同人サークル「Paper Entertainment Factory」のアナウンスと、適当な駄文。
読了。
平易な内容でしかも面白いので万人にお勧めできる素晴らしい本。特にオタクが非オタ(特に女性)に知性と寛容の素晴らしさを説くためにはもってこいかもしれない。

FKはSFの価値をセンス・オブ・ワンダーと思考実験の提示にあると思っているが、前者の比率が多いほど単純なエンターテイメントに近くなり、後者の比率が多いほど「物語の形をとった啓蒙書」に近いものになる。思考実験は、それによって何らかの本質をえぐるものでなければ他者に対して提示する意味はないからだ。
作品によっても差はあるが、ラリー・ニーヴンなどは前者であり、グレッグ・イーガンは両者ともに総じて高いレベルにある。伊藤計劃はやや後者よりか。
そして、この作品はかなり後者よりだといっていいだろう。センス・オブ・ワンダーの源泉となるSF的ギミックは「ありうべき未来」としてのイメージから大きく外れたものではなく、意外性には欠ける。しかし、それゆえに読者は素直に作中世界に入りこみ、作者のメッセージを無理なく受け取ることができる。
そう、さきほど「イーガンはセンス・オブ・ワンダーと思考実験の提示の双方を高いレベルで行っている」と書いたが、その代償として読み手にしばしば高い能力を要求する。センス・オブ・ワンダーを強く感じられる世界ほど、現実世界からかけはなれがちで、その世界での体験を思考実験するには読み手の想像力が追いつかないことが多い。そうなると書き手が作品にこめたメッセージは読者に十分には伝わらない。
したがって、書き手がなるべく多くの読者に伝えたいメッセージがある場合、センス・オブ・ワンダーは控えめにするのが正しい選択である。

では、この作品で書き手が伝えたいことは何か。
「人間の愚かさ。それに起因するさまざまな現実の問題。それに対する唯一の解決策。知性と寛容の賛美。」
周辺事項としてはもっといろいろあるが、まとめてしまうとこんなところになる。
FKは山本弘にはかなりシンパシーを感じる部分が多い(思索型人間、TRPGマスターでプレイヤー、いわゆるオタクとしての素地が十分、人間の愚かさの研究と分析etc)ので、作品中でも書き手が何をいわんとしているかがハッキリとわかったり、読んでいてニヤリとさせられる箇所が多々あった。作品のメッセージの9割5分がたについては「我が意を得たり」と言っても過言ではない。残りの5分は何のことはない、FKのほうがもっと悲観的で厭世的だというだけのことだ。
もっとも、そこは枝葉であり、掘り下げても収拾がつかなくなるだけなので、メッセージを明確にするために意図的に目をつぶったのだろうとは思う。
ノンフィクションにここまで明確なメッセージを込められるだろうか?無理だろう。フィクションの持つ力はこの本自身の言及事項の一つだが、この機にあらためて考えてみるのも面白い。
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まだ読了していないが、山本弘の哲学がすごく感じ取れる短編集。見聞を広めるほどに、人の愚かさ・狭量さ・頑迷さをまのあたりにし、それについて深く考え、出てきた彼なりの思いを込めた短編群、だと思われる。
それぞれの主張は・・・
「宇宙をぼくの手の上に」
趣味に対して偏見を向ける醜さ。フィクションもノンフィクションと変わらず物語としての力を持つこと。
「ときめきの仮想空間」
バーチャルの中での意思や決断、体験もリアルのそれと同様に価値を持ちうること。
「ミラーガール」
やはり趣味に対して偏見を向ける醜さ。それとAIものの定番、「学習型AIは人の心と近しく、価値を持ちうる」。
「ブラックホール・ダイバー」
人生観と心の成長について。
「正義が正義である世界」
人間の愚かさ・理不尽さ。
「詩音が来た日」
人生観、特に老いと死。人間の愚かさ・理不尽さ。なかでも、論理より感情を優先する愚かさ。それに対する1つの解釈。

これらの主張がすべて女性もしくは女性型AIから語られるところが興味深い。男はもとより論理偏重なので、右翼が国防の重要性を語る、みたいで主張に新鮮味が無い。左翼の口から語らせることに意味があるということだろう。特に女性型AIは内面的には男性以上に徹底して論理的だがアイコンは女性、という点でこの手の主張をさせる主体としては特別な意味を持つ。

パケ絵でヒーローものと見せかけて内容は重ーいサスペンス。そういやスパイダーマンも鬱展開パートが多かったよな。ヒーローで鬱話って流行りなのかしらん。
3時間近い尺があるので、話が佳境に入る最後の30分ぐらいまではかなりローテンション。そこまでの見せ場は、1人だけ超越しまくったDr.マンハッタン絡みの部分にほぼ集中している。ワルキューレの騎行をBGMに青白く輝くパンツ一丁の巨人が悠々と戦場を闊歩するベトナム戦争の描写は笑うしかない。
Dr.マンハッタンは全てにおいてキーになる人物だが、女に振り回されたり女に説得されたり奇跡の意味に開眼したりするあたりは正直陳腐すぎて拍子抜け。
そしてラスト30分は今までの鬱憤を晴らすがごとくアクションが展開され、全ての謎が明かされていく。だからこそこの時代設定なのか、と裏事情的なものの理解にも及び、そのカタルシスはなかなかだが、話的にはハッピーエンドからほど遠いので後味はよろしくない。核になるテーマ、結論ともに(映画の題材としてはともかく)ありふれているということもマイナス。
CG・SFXは凄いけど、いまやそれだけでウリになるような時代でもないしなー。
ストーリー的には特に破綻はなく、伏線もちゃんと回収はしている。技術的にはしっかりしてると思うが、驚きや発見、感動、盲を啓かれる感覚をあまり得られない映画だった。難しいものだな。
グラン・トリノが自分内で高評価であり、ウォッチメンがそうでない理由をちゃんと分析するのは大いに意味がありそうだと思った。

総括。
映像は十二分に楽しんだ。
だが話の流れには疑問符。ストーリー的な必然性は理解可能だが、登場人物の心理の流れから予測される展開と乖離しているため、その違和感がしこりとして残った。
以下、詳細。

創元SF文庫の年間日本SF傑作選で、伊藤計劃の短編が含まれている。
配置的にはトリだがまずはそれから。

『The Indifference Engine』
虐殺機関、MGS GUNS OF THE PATRIOTS、ハーモニーと、全てで紛争地帯が舞台の一部に含まれるが、本作もその例に漏れない。
家族を皆殺しにされて部族間の戦争に身を投じた少年が、外国の介入で終戦させられて平和推進プログラムに従った措置を施される。それは、外見的特徴などから「あいつは俺と違う、憎むべき部族の人間だ」と判別する脳の働きを阻害して、憎しみの元をなくそうというものだった。
以上、あらすじ終わり。
確かに、我々の頭には思考を省力化し、1つのことを関連事象に類推適用しようとする働きがある。たとえば、親しい友人が犯罪に巻き込まれたとしよう。仮にその加害者が外国人だったら、その国の人間全体にネガティブなイメージを抱き、警戒するようになるだろう。また仮にその加害者が外国人でなくたちの悪い異性で、友人はそれに騙されたのだとしたら異性全般に警戒心を抱くようになるかもしれない(自分に親しく付き合っている異性がいなければなおさら)。
しかし、人間は非常に個体差が大きいので、ある簡単な基準で人をカテゴライズしてその全員を同じように判断する、というのは間違っている。つまりはこれが「偏見」であり、安易で不適切な思考の省力化である。
で、その「人間をカテゴライズ」する機能を失わせれば偏見もなくなり、偏見に基づいた憎悪もなくなるだろう、と(部族や種族全体で憎みあうなんてのは偏見に後押しされていなければ絶対に起こる類のものではない)。

うん。理屈は正しそうだが、そんな至高のお題目で何もかもうまくいくほど人間は賢くもなければ理性的でもないよね。
安易で不適切でも、偏見は思考の省力化パターンの1つ。省力化なしで思考を処理しきるだけの能力のない人間は、そのぶん精神に大きな負担がかかり、いずれ別の方向に歪みが噴き出すだろう。
結局、人の世の矛盾を解消しようという運動の前には常に、人自身の「能力不足」が解決不能な問題として立ちはだかっている。
そんなことを思った一篇。

『パリンプセストあるいは重ね書きされた八つの物語』
作者の円城塔は、伊藤計劃と同じく第7回小松左京賞の最終候補になって両者とも落選し、改稿した作品がともに「ハヤカワSFシリーズJコレクション」から刊行され、ともに日本SF大賞候補にノミネートされて仲良く落選、という経緯のせいで何かと二人まとめて話題にされやすいらしい。それで本作も読んでみたが...
まったく趣味に合いませんでした!
表現的には平易に読者に確実に意味を伝え、ストーリーで語りかける手法...の真逆で、表現に技巧が凝らされ一文一文咀嚼しないと意味がわからない。表現そのものが主でありストーリーは従であるかのように、ストーリーは特に主張性を持たずむしろ意味不明。
こういう、文章表現に眩惑されるような読書体験を好む人は存在しているんだろうが...俺はノーサンキュー。

『七パーセントのテンムー』
ご存知、「と学会」会長の山本弘。本作はSF小説としても十分面白く、山本弘の文筆家としての確かな実力を感じさせるとともに、疑似科学をネタとしてしっかり取り入れつつ、現実に起こっていることは変わらないのに科学的な解釈が異なるだけで思い惑う人の心の不確かさを書き出すあたりが「と学会」会長の作品として貫禄の出来栄えでした。この傑作選中一番面白かった。おすすめ。

残りは、まあ、とくに語るほどのものはないかな...

・イーガン短編集「TAP」読了。どちらかといえば初期の作品が多いらしく、「イーガンといえばアイデンティティ問題」というほど固定化したテーマは持っていない。それらしい話も一本あったが。その中で、登場人物が「子供を通じて永遠に生きるなんて考え方はやめとけ」みたいなことを喋ってて、ああ、同じ思索過程を辿ってるなぁと苦笑した。
2本はホラーで、「ふーん」という読後感。キングの短編でもそんな印象だったが、ホラーの短編は盛り上げるための時間が少ないからは難しいのかも。個人的には、短編小説は何かしら明確なテーマを打ち出してくれないと印象に残らない。
表題作TAPでは、本題とはちょっと外れるものの、コミュニケーションの手段が変容すると人間のあり方も変容せざるをえないということについてちょっと考えさせられた。lainではNAVIを通じて絶えず誰かと「つながる」ことに依存する人々が描かれたが、今のケータイ依存症っぽい人々を見ていると、彼または彼女らはソレが無かったときから比べると確実に何かが変わったのだろうと思う。ネットも人のあり方を変えている。…ただの現状の再確認にすぎないが。
また、作中で宗教についてのドライな言及があったが、理性と知性の極みを志向する精神にとって宗教はやはり無益で無価値、どちらかといえばむしろ有害、となるのは納得がいく。自分は無神論の国に生まれ育っているので無理なくそう思うようになったが、「信仰持っててあたりまえ」の国に生まれた人には紆余曲折あったんだろうなー、と思ったり。

・伊藤計劃の訃報を知る。イーガンと並べても見劣りしない、国内では珍しいレベルのSF書きだった。むろん、SF界での評価はイーガンのほうが上だが、それは作品を重ねるうちに然るべく高まってくるだろうと思っていた。が、それももう叶わない。その才と可能性を惜しむ。

・ガンダム00セカンドシーズン最終話。ラスボスがガンキャノンてのは全く黒田も冗談が好きだな。しかもリバーシブルでガンダムだ。はっちゃけてるなぁ。話としてはイオリアの計画から外れて暴走していたイノベイド達を駆逐して、刹那は純粋種のイノベイターとして目覚めたので計画の狙いどおり、めでたしめでたし。でも人間社会からそう簡単に戦いが無くなったりはしないよ!俺たちの武力介入はまだまだ続くぜ!-完-
落としどころとしては無難すぎてイマイチ面白みが足りない。純粋種のイノベイターになった刹那が世界中を量子コミュニケーションでつなぎ、人類がわかりあってハッピーエンド!とか、黒田ならやりかねんと思ったんだが。

・とらドラ!最終話。小説とは結末が違うらしい。途中経過は同じなのか?どこから違うのか?どれぐらいの改変なら許されるのか?まあ、さすがに鬱展開を全て無くせとは言えまいな。というか、とらドラのは鬱展開というより女同士のガチでのぶつかり合いなので、これはこれでとらドラらしさのような気もする。前半の、安心して見れるラブコメアニメ、ていうのが好きだった人間には不評だったようだが。しかしまぁ、作画が大崩れすることもなかったし、最後に「好きだ」って言われたときの大河の表情の変化を丁寧に描いたあたり、良いアニメだったんじゃないでしょーか。
櫛枝は最後まで謎、っていうか屈折した何かが精神の底にわだかまったようなキャラだった。表層部が活発明朗体育会系で、竜児はそのスキンだけに惚れていたわけかー。仮面体育会系。これがゲームなら櫛枝ルートで謎が解明されるところなんだが。

まずまず面白かった。FKにとってSFはセンスオブワンダーを感じさせる内容であればその時点で及第。
あとはエキサイトメントとテーマ性だが、前者はやや低め、後者はこの著者らしくて好し。
イーガンはSFを通じてアイデンティティ問題を語り、伊藤計劃はSFを通じて人間社会の問題を語る、というところか。イーガンと並べて評価しているあたりで評価の程度はお察しいただきたい。

FKは社会人になったときに可処分時間の使い道を絞り込んで、アニメはほとんど観なくなっていたのだが、今期は2本観た。
コードギアスR2はコードギアスを観ていたから続きとしてごく順当に。コードギアス自体は評判が良いから途中から追いかけたもので、評判に恥じない出来だった。
で、R2はどうかというと、大体毎回何かしらのサプライズを入れつつアクションシーンも見栄え良くこなし、作画崩壊もなく、伏線等もちゃんと回収して一貫した流れで結末まで持っていったということで、十分評価に値する出来だと思う。ハッピーエンドじゃないけど、最後にとってつけたようなハッピーエンドになられても困るしあれでいいのだろう。

ブラスレイターは虚淵が噛んでるということで観てみた。GONZOのCGアニメ部分は出来が微妙でしょっぱなから不安に。前半13回で人間の愚かさ醜さを見せつけて悲しみと怒りを溜め込んで、後半で発散・・・されねー!
各登場人物が各々の私情も交えつつ大義の戦いに身を投じるのだが、敵方は常に余裕綽々で戦っても戦っても状況が好転せずカタルシス皆無。主人公が強化パーツの副作用で暴走し、親しかった少女を殺してしまってようやく暴走を抑えこみこれで最強状態か?と思ったらあっさり強化パーツを破壊されて敗北。ナニソレ。
最後まで、それなりに派手で激しい戦いはしつつもやっぱりカタルシスは皆無で、でも一連の事件にケリはつき、生き残った面々が祝福されてハッピーエンド。・・・ハッピーエンド?
キリスト教絡みのことがやけに多かったが、「主がほんとうにおられるなら、なぜ正しい行いをしている者や敬虔なる者を救ってくださらないのか?」という陳腐すぎる問いに作中の人物達(特に神父)が答えられないのはマズいだろう。エセ宗教家、エセ信徒と言われても反論できまい。
というのは、そもそも宗教は説明不能な事象や解決し得ない理不尽等の矛盾に対する回答装置であり、それらの矛盾は全て神や悪魔、来世などに収束させるべく作られている。
であれば、先の問いに対しては「現世での生は、真の生である来世、死後の行き先を決めるための試験である。苦境にあっても道を誤らないか、信仰を捨てずにいられるかを神は見ておられる。現世での生がたとえ苦痛に満ちたものであり、現世的な幸福とは無縁に死を迎えたとしても、神への信仰と祈りを絶やさず正しい道を歩み続けたのであれば死後に幸福と安らぎに満ちた世界での永遠の生が約束される」といったようなことを即座に答えられねばならない。でなければ何のための宗教かわからない。
で、そんな陳腐な問いと、そんな不確かな宗教観念に立脚してドラマを展開されてもなー。評価に値するものになるはずがないと思うんだがどうだろう。
結論。虚淵がなにかしらに起用されても、虚淵の文章がなけりゃ価値無し。

どっちもごく最近観たのでいっしょくたに。
AVP(エイリアンvsプレデター)のストーリーはほんとに刺身の舟盛りについてる菊の花よりも無意味。お飾り以下。
まあ、たとえばリアル格闘家2人が主演の映画とかだとストーリーはお飾りで、その2人のバトルが充実してれば良い、というのはたしかに正しい。
が、優れたストーリーがくっついてたらダメってこともないだろう?素晴らしいストーリーやサスペンスや神展開のせいでバトルが霞んでしまいました、って事例はないだろ、さすがに。
AVPのストーリーは、エイリアンとプレデターの対戦を実現させるための、最低限納得しうる設定を作り、それをたいした料理もせずにごろっと皿に乗せて出したみたいな代物だった。
「ストーリーなんて最初から期待すんなよ」という大人の意見を聞き入れて、ストーリーについてはこれぐらいで。
じゃあ肝心のバトルはどうか?というとこれも疑問が。プレデターのもっとも特徴的な装備である光学迷彩はエイリアンには効いてないっぽいし、兵器というより「スポーツハンティング用品」である近接武器・投擲武器でわりと愚直にわたりあうしかない模様。で、十分なボリュームがあるバトルは一回だけ、あとは2回ほど戦って、残りは爆弾で一掃・・・って、それ設定と照らし合わせても何か変じゃね?AVP2はプレデターの「プロのハンター」がエイリアンに翻弄されまくる映画らしいが、AVP1でも十分プレデターは馬鹿っぽいぞ。

さて、ミスト。
パニックものやクライシスものが「極限状況における人間の心理と行動を描く」ものとすれば、これはまさにその正統派であると言えよう。特に極限状態×群集心理×宗教=最悪、という図式を描き出した箇所には「人間本来の善性」とかいう甘っちょろい理想論にヒビを入れるに十分な表現力がある。
それに対して、ホラーは映像・演出・設定等の全てを使って恐怖そのものの表現を突き詰めようとするものだと思うので、これはホラーと呼ぶにはいささか対象が分散している感がある。
それ以外に特筆すべき点としては、苦渋の選択・・・という表現がまったく生ぬるいとしか言えないような、身をちぎられるような思いをしての決断が報われないという結末の救いのなさ、かな。こりゃー後味悪いわ。
ついでに言うと、その救われなさはこの映画の「パニックもの」という側面に必須な要素では全く無い。
それはつまり監督がこの救いの無さ、後味の悪さをこの映画を構成する重要な柱として認識しているということで。
実際、この結末がなければ本当に「極限状態×群集心理×宗教=最悪」しかこの映画の見所はない、かも。
そりゃこの結末を変えろって言われればスポンサーのオファーも断るよなぁ。

というわけでスーパーサイズミーの感想。
まあマック商品の是非はともかく、一日の消費カロリーの倍を摂取し続けたらそりゃ肥満になるし、高血糖でぼうっとするようにもなるわな。
だから、この監督の自分自身を使った人体実験はセンセーショナルではあるけどほとんど意味がない。
この映画からそこをオミットすると争点は以下の3つ。
1)ファストフード会社の広告戦略で、国民がやたらに高カロリーな食い物を売り込み続けられているのを野放しにしていいのか?
2)肥満は社会問題化している。1とそれをあわせて考えるとどうか?
3)学校ではちゃんとしたものを食わせろよ。栄養教育も含めて。あと運動もさせろ。

1は基本的にはメディアリテラシー、受け取る側のおつむの問題だな。物も情報も溢れかえっている社会においては、何が必要でなにが有害かを見極める目が重要ってことで、これは何も肥満問題に限った話じゃない。
2はそのメディアリテラシーを、少なくとも肥満に関する分野については国民が身につけられるようにする、というのが基本だろう。あと、食品にカロリー表示を義務付ける、とかかな。
一日の消費カロリーはこれだけ、今食べたいと思っているもののカロリーはこれだけ。肥満になるとこういう害がある。そこまで判っていたら、あとは自己責任以外の何物でもない。
自己責任、というのを徹底するのと、社会全体への医療費負担の上昇を抑えるための即効性のある対処法として、「肥満由来の疾病については医療保険を適用しない」とかはアリかな。
3はまったく異論の余地なし。2の結論でもあるし、栄養学はきちんと教えるべきだ。そして、肥満にならないようにしつつ、ちゃんと体が育つための食事を与えること。もはや先進国において、「国民は勝手に増えるから何も手を打たないでいいや」ってのは、ありえない怠慢。高齢者福祉を削ってでも子供の養育・教育に力を入れないと、社会全体が先細りするぜ?

まあなんだ、アメリカもそうだけど日本も自由主義・資本主義社会が成熟して社会としての曲がり角にさしかかり・・・いや、もう曲がり角を越えたか・・・、いろんなところで制度疲労が起き、矛盾が噴出しつつある。
なんだかんだいって、今までの政治家って楽だったなぁ!人口ボーナスとか、教育の権威と質とか、「戦後」とか、いろんな要素からなる追い風に乗って、無能な政治家でも「数字としての成果」はそこそこ出してこれた。
しかし、この先はほんとうに頭を絞って、力を入れてやっていかないとダメだろうな。本当に政治家の実力が問われる時代の到来というわけだ。
このところ続けて首相が政権放擲しているのは、状況の困難さが増したせいなのか、骨の無い政治家が増えたせいなのか。いずれにせよ、情勢は待ってはくれないわけだが。

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プロフィール
HN:
MOS&FK
性別:
男性
職業:
ゲーム会社勤務
趣味:
電源不要ゲーム
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