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電源不要系同人サークル「Paper Entertainment Factory」のアナウンスと、適当な駄文。
おなじみグレッグ・イーガンの、最新短編集。

★七色覚
網膜インプラントという技術で人間本来の三色覚を七色覚に強化する話。先端技術と人間のかかわり方の変遷が個人レベルの視点で描かれていて示唆的。すなわち、「最初は技術の先進性だけでアドバンテージとなるが、それが一般的になったり類似技術が現れることで先進性だけに頼っていた者は没落する。そののち、その技術が完全に普及した段階では、その技術の存在を基盤とした技術や文化を発展させた者が隆盛する」。企業経営陣や投資家には特に重要な認識であろう。

★不気味の谷
死を目前とした人物の人格・外見を移植されたアンドロイドが、自身に移植されなかった記憶の謎を追う話。記憶喪失の人間が欠落した記憶を追う話と一見似ているが、移植されなかった意図をめぐる葛藤や判明後の選択肢はこの設定ならではのものがあり興味深い。人格と外見をアンドロイドに移植して残す、という行為は自分には理解しがたいが…。

★ビット・プレイヤー
表題作。奇妙な物理法則に支配された世界に目覚めた主人公が、世界の謎を解こうと奮闘する。その世界の正体は「奇をてらっただけのチープなSF小説の設定を流用したVRゲームの舞台」で、主人公はそこのモブNPC(=端役=ビット・プレイヤー)として使うために違法コピーされた人格データだった、というもの。精神そのものをデジタル化することが当たり前になっているイーガンSF世界では、人格データを違法コピーして使うなんてのは人間の奴隷化に等しい重大犯罪だろう。他に類似題材の作品はあったっけ…?あったようななかったような…。人格データのもっとおぞましい利用法はいくらでも思いつくが、モブNPCのAI作成コスト削減のため、というのは見た目かなり穏便で、一方その程度のために人間の奴隷化に等しいことをやってるというのが別種のおぞましさを感じさせる。
その後、主人公はモブNPCとして不適格な行為が露見して消されてしまうことのないよう注意しつつ、世界を変えていくことを目指す。その第一歩としての成果を成し遂げたところで本作は終わる。続編もいくつかすでに書かれているらしいが未訳。たしかに、話をいろいろ広げていけそうな設定ではある。事象としてのスケールはだいぶ小さいのだが。

★失われた大陸
世界線を移動しての難民の話。難民の悲惨な境遇をアピールせんがための話、という雰囲気が露骨で、イーガンらしからぬ政治臭の強さ。世界線の移動云々もたいして重要ではなく、SFとしての見どころは乏しい。

★鰐乗り
デジタル化での不死を獲得した知性が知的探求に存在意義を見出すのはイーガンSFではおなじみ。ある種の自己満足のために、死が確定的な調査に乗り出す話は以前にあったが、コピーした一つが死ぬだけでスナップショットした別データは存続していた。本作では、やりたいことを一通りやりつくして、自分の存在を終わりにしようと決めた(スナップショットも残さない)主人公が、最後に最高の達成感を得るために知的探求に挑む話。デジタル的不死という思考実験において、これまでの位置から一歩踏み込んだ感がある。

★孤児惑星
母星を持たず放浪している孤児惑星に文明や生命の存在を示すデータが見られたことから、調査隊が派遣される話。デジタル化した知性が調査を行うのはイーガンSFによくあるパターンなのだが、謎めいた奇抜な環境を大々的に提示する手法はラリー・ニーヴン(ネビニラルの円盤のアナグラム元)っぽい。
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「メーデー 航空機事故の真実と真相」などの航空事故関連の動画をYoutubeでよく見ていた自分にとってはかなり興味深く読めた小説。ただ、本質的なテーマとしては印象に踊らされる大衆の愚かさと印象操作で商売するメディアの下劣さ、そして企業の上のほうの汚い権謀術数…という感じなので、汚泥に足首まで浸かって進むような読書感。その代表のような2人が最後には痛い目にあうというカタルシスはあるものの、本質的な部分は何も解決していないわけで、すっきりと気分良くはなりようもない話です。
まあ、でも構成の巧みさはさすがです。サスペンスシーンを織り交ぜて緊張感を維持しながら、動画では得づらい航空機業界の事情のあれこれを教えてくれて、前述の本質的なテーマを語りながらクライマックスに向けて盛り上げ、どんでん返し的な真相解明に至らせます。読んでて面白い小説なのは確か。

読了。一、二巻ともに108円でBOOKOFFにあったので買って読んでみた。どちらも大変に分厚い。

シュタゲはPCでプレイし、アニメを見て小説を読んだわけだが、この小説版はシュタインズゲートという物語に触れるにはかなり良い、というか適している形態だと思われた。
SFは設定や理論などで情報量が多く、情報量が多いなら映像媒体より文字媒体のほうが無理なく多くの情報を伝えることができるためである。SF小説を映像化した作品は視覚的な驚きに頼る作品になりがちなのは、映像媒体では「パッと見で理解できる情報」以上のものを受け手に理解させるのに適した形態ではないからだ。
そのぶん音や音楽、映像で演出面を強化でき、ドラマチックなシーンや緊迫感のあるシーンを盛り上げることはできるが、それは「物語」としては本質的ではない。

なお、PCのノベルゲーム的な形態は両方のいいとこどりができそうに思えるが、一度に視界に収められる文字量の多さや読み返しの容易さによって紙媒体には紙媒体のアドバンテージがやはりある。

そして、この『円環連鎖のウロボロス』では演出面でも興味深い手法が使われている。
一行の上部と下部を使うことで、同時進行している2つの物事を描写したり、進行中の事態に対する主人公の内心を描写したりしているのだ。

たとえば                                  おわかり
こんな                                    頂ける
感じ。                                   だろうか?

これは特に緊迫感のあるシーンでその緊迫感を削ぐことなく主人公の内心を描写するのに効果的に機能している。映像作品でやるとどうしても「主人公の内心を描写し終わるまで一時停止」みたいになってしまうし、文字媒体でも逐次記述だと多かれ少なかれ同時進行感は損なわれるので、これは何気ないながらも結構画期的な手法ではないだろうか。

あと、原作つきの場合単に原作をなぞるだけでは驚きがないのでどの程度アレンジを加えるかもポイントになるが、この本ではそれもなかなかうまくやっているように思われた。
総合的に見て、かなり良い小説版だと思う。面白かった。

世界のSFファンに今最も注目されている作家、という触れ込みのケン・リュウの短編集。なお、この作家はストリートファイターシリーズとは何の関係もありません。

読了しての感想は以下の通り。
・作風が幅広い。SF以外にファンタジーも多く書いているようで、この短編集も非SF短編を含んでいる。
・全体的な傾向として叙情的であり、主人公視点でその情念にフォーカスした話が多い。ハードSFによくある「論理のメスで冷徹に事象を切り刻んでみせる姿勢」とは真逆。
・政治臭が強い。東アジア、特に中国の近現代から近未来を扱うとどうしても政治の匂いから逃れられないのかもしれないが、本人は望んでいないのに仕方なくこうなった、とも考えにくい。「哲学的」の域に達しておらず、「政治臭」止まりなのは、やはり作品への落とし込み方が「浅い」ということなのだろう。
・総じてセンスオブワンダーは薄め。SF的なアイデアで勝負する作家ではない模様。

面白い話はいくつかあったが、(特に短編においては)センスオブワンダーを最重要視する自分としては、特段フォローしていきたい作家ではない、という印象。

個別の話についてはネタバレなので隠します。

サイバー犯罪対策科の刑事もの。追うのは表面的には誘拐殺人事件でありサイバー犯罪ではないのだが、調査を進めるうちに官のコンピュータ関連システム構築に絡むさまざまな問題が浮き上がってくる。何次請けにもなっているシステムエンジニアの現場の実態のひどさもさることながら、そんな有様ではひそかに何を仕込まれてもわかりようもない、というのが恐ろしい。バックドアでも仕込まれようものなら、大量の重要な個人情報を好き放題に奪われかねない。
この現状に対して警鐘を鳴らすのがこの本のテーマの一つだろう。
そしてもう1つ伝わってくるのが、警察のサイバー犯罪対策科の頼りなさである。専門的知識を持った人員の不足、前時代的な捜査法と取り調べ方。事件の謎を解明していくのは主人公の刑事ではなく捜査協力の凄腕ハッカー。とくに終盤に差し掛かってからはこの凄腕ハッカーの独壇場であり、彼がホームズで主人公の刑事がワトスンといった趣だ。彼の協力なくしては事件は決して解決しなかっただろう。それが、サイバー犯罪に対する警察の力不足を端的に示している。
この、終盤・事件の謎解き部分での凄腕ハッカーの独壇場っぷりはバタバタと駆け足じみた印象を読者に与えてしまっているが、作品全体としては前述の二点についての危機感は十分に伝わってくるようになっているので、細かいところには目をつぶろう。
こういった内容の本であるので、あとがきや解説などでぜひ関連事項の説明をしてもらいたかったところであるが、本作にはあとがきも解説もついていない。これは実に残念なことである。

『ダークナイト』や『インセプション』で好評を博したクリストファー・ノーランの最新作…というには観たのが半年ほど遅いが…のSF映画。
だが、観終わった感想は正直「まあまあ」止まりで、3時間近い視聴時間を無駄にしたとまでは思わないまでも、誰かに薦めるほどのものではない、と言わざるをえない。

まあまあなものが「まあまあ」止まりである理由を述べるのはなかなかに難しいことだが、以下、FKが視聴中に感じていたことを順に箇条書きしてみる。

・人類が滅びる理由が砂嵐と植物の疫病?いやそれはないでしょ。ジャガイモ飢饉じゃあるまいし、遺伝子プールが異常に狭いとかじゃなきゃそう簡単に植物のある一品種が絶滅したりとかありえない。それに作物の品種改良はどこにいったの?
・この砂嵐って絶対ダストボウルを踏まえたネタだよな。これもアメリカンノスタルジーの一種か。
・土星圏に何者かがワームホールを開いた?2001年宇宙の旅か。オマージュというかこれもノスタルジー?
・ラザロ計画でNASAがロケット打ち上げ…何年先の未来設定かわからないけど多段切り離し式ロケットで…これ絶対アポロ計画へのノスタルジックなオマージュだよね。
・この映像化されたブラックホールは綺麗。しかし星雲の実物の画像と比較して勝てるほどではないね。
・遠浅の海洋惑星?そんなものがありえるの?
・おおお…。この津波シーンがスペクタクルシーンその1か。
・ウラシマ効果。我々にとってはトップをねらえですでに体験済みのネタだ。
・この拍子木組み合わせたみたいなロボット面白いな。
・科学者嘘つきばっかだな。
・この、マン博士とのしょぼい格闘シーンがスペクタクルシーンその2…?
・トラブルで高速回転する宇宙船と相対速度をあわせてドッキングするシーンがスペクタクルシーンその3。だがこれならゼログラビティのほうが刺激的だったな。
・結局のところテーマは家族愛か。定番中の定番だね。テーマ的に誰も文句をつけられない家族愛。困ったときには家族愛。一家に一台家族愛。
・ブラックホールに飛び込んだらその過程で超重力で引き伸ばされてバラバラになると聞いたが?そのうえで不可逆圧縮される。
・そしてここでタイムパラドックスですか。
・戻ってくるのも救助されるのもご都合主義と思わざるをえない。

以上、こんな感じ。
そつなく作られてはいると思うけど、素直に感心したシーンが津波と拍子木ロボットだけではなー…。宇宙もののSF見るのが初めてという少年少女なら興奮感動できたかもしれないが、FKにとっては新鮮味のないネタばかりで…。センスオブワンダーのないSFなんて味の無いガムも同然ですよ。
つぎ頑張ってくれ!

続けて読んだので2つまとめて。
以前読んだ山本弘の短編で亜夢界というネタがあり、タイムパラドックスで因果律が崩壊した世界を扱ったその斬新さに感心した。タイムパラドックスはタイムトラベルを題材としたSFにおいては「この作品内ではタイムパラドックスをどう扱うか」ということを決めておかなければならない問題ではあるが、その対応は様々で、だいたいは話のアクセントとして都合の良い形で小規模に取り扱うだけにとどまる。
たとえばバックトゥザフューチャーでは過去において自分の祖父と祖母の関係が結婚前に破局してしまわないように奔走するし、マイクル・クライトンの『タイムライン』では過去に定住することを決めた人物についての記述が古い記録から見つかったりする。実につつましい影響だといえよう。
これに対し、タイムパラドックスと言うものの影響を最大限深刻に取り扱ったのが亜夢界のアイデアで、この場合因果律が崩壊してしまう。時が過去から未来へと一方向にのみ進み、原因があって結果があるという因果の流れ自体が、この宇宙に正の物質のみが多量にあって反物質はほとんど存在しないのと同じようにある種の「偏り」であり、きっかけがあれば連鎖的にその偏りは正されうる…といった感じの理論構成で、タイムトラベルによりタイムパラドックスを起こしてしまうことがそのきっかけというわけだ。ここまでハードSF的にタイムパラドックスを扱った作品を自分は見たことがなかった。
山本弘のSFでタイムトラベルやタイムパラドックスを題材にした作品を読んだのはそのときが初めてだったので、斬新な印象が一層強まったのかもしれない。

…前ふりが長くなってしまったが、短編集『シュレーディンガーのチョコパフェ』には亜夢界を扱う別の話が1つと、タイムトラベルを扱う話が1つ収録されている。そして『去年はいい年になるだろう』はタイムトラベルによる歴史改変を扱った長編だ。ここに至ると、山本弘はタイムトラベルやタイムパラドックス関係を得意なテーマ、あるいは好みのテーマとする作家だと認識を改めるべきだろう。なお、いずれもタイムトラベルやタイムパラドックスの扱いはハードSF的で重大な影響を及ぼすものになっており、そこのスタンスは崩れてはいない。そして今まで何度か述べてきた、人間の愚かしさと向き合う山本弘らしさも健在であり、今まで彼の作品を楽しんで読めていた人が失望を味わうようなことはないだろう。

うん…これはひどいな。番組がひどいんじゃなくてこの番組で示された実態がひどい。
前々から精神科と向精神薬についてはさまざまな問題を孕んでいると認識はしていたが、その問題認識が鮮明化しましたよ。
いくつもの病院に行ってそれぞれ薬を処方してもらう→余剰分をネット等で密売、という誰でもできる方法での医療保険金詐取と、生活保護を受けている人間は医療費の本人負担分がゼロになるのを利用して詐病で薬を集めさせ安く買い取って高く売るという暴力団の貧困ビジネス。
国の支出に占める医療費の額は毎年増えていくばかりだというが、いったい精神科絡みでいくら費やされているのだろうか。何も知らない人が「精神科関連での医療費支出が増えている」と聞けば、社会のストレスがますます増えて精神を病む人が増えている…と素直に思ってしまうところだろうが、貧困層の増加→生活保護受給者の増加→貧困ビジネスの拡大という図式で医療費支出が増えている面も相当量あるのかもしれない。

精神科はもっとも詐病の判定が難しいのに加え、医者としても患者は客なので要求された処方を出して客のニーズに応えようとする面がある。悪徳医師というほどでもなく、業務を効率的に回そうとするとそうなるかなっていう程度なので倫理的なブレーキも効きづらい。
そもそも本来医者は患者を疑って掛からなければならないような業ではないわけで、「患者が医者をだまして不正に薬を手に入れようとしてないかきっちりチェックしろ!」なんていうのは酷だ。
”不正に売る”側を厳しく取り締まっていくほかないだろう。

Web上でこんな記事を見つけた。

ソーシャルゲーム批判 - 文人商売

鋭い分析も含んではいるが、これはちょっと…。
自分はこの記事の作者にケンカを売りたいわけでもソーシャルゲームを擁護したいわけでもないが、あまりにも重大な視点が欠落しているので筆を取った。

ソーシャルゲームの「ソーシャル」とは?

この記事ではソーシャルゲームを「ゲームとプレイヤー」の二者間の関係性だけで捉えており、「ゲームと、複数のプレイヤー」という関係性についての考察が一切ない。ソーシャルゲームに「ソーシャル」と冠される所以、ゲーム内での体験を通じてプレイヤー間で連帯感や優越感を感じてもらう、そしてゲーム内での人間関係を捨て去りがたいものと感じさせることでゲームを続けてもらう、という構造を把握しなければ、スタンドアローン的に遊べるゲームシステム部分だけを論評しても意味がない。
対戦プレイ・協力プレイでの面白さを追求したゲームを1人だけで遊んだときの感想を書いているようなものだ。ソーシャル性をAIに代行させることは困難なので、AIは無し。対戦格闘ゲームのトレーニングモード単体でのプレイ感…とでも言えばいいだろうか。

別の例を挙げよう。この記事中にもあるTRPGだが、あれは事情を知らない人間が傍から見るとプレイヤー達が冒険者側、ゲームマスターがモンスター側となって勝敗を争うゲームのように見えるが、あれをプレイヤーVSゲームマスターの勝負として考えるとゲームとして破綻している。ゲームマスターには無制限の裁量が与えられているからだ。TRPGは、ゲームマスターとプレイヤー全員を含めてプレイ体験を楽しむコミュニケーションゲームとして捉えなければ意味をなさない。
構成要素の一部だけ取り出してみたときの印象では全体としての評価はできない、という例である。

この記事だけでなく、Webに溢れるソーシャルゲームに対する論考にはビジネルモデルとスタンドアローン的なゲームシステムにだけ注目した内容のものが多い。
ソーシャル性をあまり活用していないゲームもあるだろうが、大部分の書き手は自分できちんとソーシャルゲームをやり込んでみていないのだろう。実のところ、自分もある程度まともにソーシャルゲームをやり込んでみるまでは、暴利を貪っているようにしか見えないビジネスモデルと、スタンドアローン的なゲームシステムが単純安易このうえないことへの反感が強くあった。ゆとりゲーここに極まれりとか、こんなゲームがもてはやされるようではデジタルゲームの文化は死ぬとか思っていた。
大部分のソーシャルゲームでは導入部から中盤にかけてぐらいは他のプレイヤーとの関わりが薄い、ないしはほとんど無い。そして中盤を過ぎてからソーシャル性の比重が増していく。このバランスは気軽にゲームを始めてもらうための配慮だろうが、そこに至るまでソーシャル性のなんたるかを理解してもらえないという弱点でもある。
だが、ソーシャル性が機能する局面まで来ると、ゲームシステムのシンプルさはむしろ煩雑さを減らして「仲間のために協力する」という行為のハードルを下げるよう機能していること等々が漠然と見えてくるのだ。

ソーシャル性を一切考慮しなければ、単なるゲーム内の追加データのために数千円支払うなど馬鹿げたことだ、ガチャでお手軽に手に入る「強さ」に惑わされ耽溺しているだけだ、という論が出てくるのは至極もっとも。
しかし、これが交際費…人付き合いのための出費だとしたらどうだろうか。呑み会につきあって数千円払う。一緒にカラオケやダーツバーに行って数千円払う。それほどおかしくは思えない。
ゲーム内での強さを追い求めるにしても、自分の効率的なプレイのためだけでなく、仲間と協力するときにどれだけ自分が貢献できるか、ということを念頭に置いているか否かで、意味合いはかなり変わってくる。
このようなソーシャル性についての視点を欠いたままソーシャルゲームについて語っても、一面的で意味の薄いものにならざるをえない。そう自分は思う。






言わずと知れた有名タイトル。BOOKOFFとかでも100円エリアでは見かけない人気作だ。

題材選択が、良く知られた物事を意外な視点から切る、っていうところですでにある程度の面白さは担保されているのだが、文章のテンポのよさがそれを後押しする。
物書きの腕の見せ所は、いかに美しく独創的な文言で描写を展開するか、などではなく、必要でない描写をいかに端折るか、にあるとFKは思っている。戯れにでも小説を書く真似事をしてみれば、書くべき内容/書きたい内容に対してどの程度の文章量を割くべきかの判断が重要であることはわりとすぐにわかる。どのシーンも同じ密度で描写していっては冗長でもったりした文章になってしまうのである。
重要性の低いシーンは必要最低限の情報だけを読者に与えてスピーディーに読み進めるようにすることで、重要性の高いシーンでの細やかな描写も生きてくる。
さすがに脚本家として活躍していただけのことはあると言うべきか。

隆慶一郎の特徴的な表現「秀忠はほとんど叫んだ」中の「ほとんど~」、「宗矩は驚愕したと言っていい」中の「~と言っていい」。言い切り断定ではなく、9割程度に抑えた感じにするこの表現は、同時にこの話全体を誰かしら語り部の口から語られているかのような親しみを感じさせるものにしている。こういう不思議に親しみを感じさせるような表現はほかにもいろいろあり、とかく事実を追って淡々としたものになりがちな歴史検証ものの本作に読み物的面白さを与えるのに一役買っている。

…評論家ぶった書き方はこのへんにして、面白いです。原哲夫の絵がついてなくても。
結末は史実的に大団円となるはずもなく、ほろ苦い寂しさが漂うものですが、基本的には全編活劇調で素直に楽しめます。
漫画の影武者徳川家康とSAKONを知っていればさらに楽しめること請け合い。特に荒唐無稽なSAKONが意外といろいろな点で原作を踏まえていたあたりは感心しました。

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プロフィール
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男性
職業:
ゲーム会社勤務
趣味:
電源不要ゲーム
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